島根県邑南町(旧:石見町)の城

史跡訪問日記

 ここでは、当サイト管理人の城跡訪問の余談や、覚え書きなどを記しています。

 

◆高橋興光の切腹の地が、キャンプ場になっているってどうよ?

 高橋氏の居城、藤掛城のある邑南町阿須那(旧羽須美村)には、城主・高橋興光にまつわる史跡が点在しています。
 その一つが、腹切り岩です。

高橋興光の腹切り岩
腹切り岩

 

 高橋氏を滅しようと画策した毛利元就によって、同族の高橋盛光をそそのかし、高橋興光を襲わせた時に、興光が切腹して果てたという岩です。
 そこは現在、軍原キャンプ場になっています。

 そもそも、戦国武将が切腹して果てた怨念深い地をキャンプ場に選ぶというのがあり得ないです。十分に心霊スポットになりそうな場所ですが、まさかそれを狙ってキャンプ場にしたとか?
 深夜のテントで「昼間に腹切り岩の上にどんぐりを置いておいた。それを今から取ってこいや」となれば、恐怖の罰ゲームに成り得ます。

腹切り岩
腹切り岩の周辺にはログハウスが並んでいます。
宿泊するには度胸がいりそうです。

 キャンプ場の入り口に、高橋興光切腹の案内板が掲げられています。

伝承 軍原

 写真ではよく分からないという方の為に、ここに書き出してみましょう。

 伝承 軍原のこと
 大永享禄のころ毛利元就は、当時この地方に一大勢力を有していた高橋氏を配下に入れようと考え虎視眈々として高橋氏の動静を伺っていた。
 これを知ってか高橋興光は山陰の雄尼子氏に密かに意を通ぜんとす。これを察知した元就は、この際興光を滅亡しようと策謀をめぐらし、鷲影城主高橋弾正盛光に「高橋興光をよい手だてによってその首をとれば、高橋氏の所領を汝のものと認め末長く協力することを誓う」との密書を送った。受け取った盛光は元就の謀略とは気づかず、興光謀殺を決意してその機を伺っていた。時は享禄三年十二月四日、備後の入君城を攻めていた興光は、正月を故郷で迎えようと一部の者を従えて帰路につき、口羽から出羽川沿いに三三五五我が城藤掛城を仰ぎつつ軍原にさしかかった。
 盛光は今こそ好機到来とばかり腕ききの部下達を軍原に森陰に伏せておいて息を殺して興光の到来を待つ程に、神ならぬ身興光は盛光の裏切りなど知る由もなく軍原につくや「ワッ」とばかりに盛光軍の伏兵が襲いかかった。
 不意をつかれて驚きながらも興光は疲労困憊の部下を激励して獅子奮迅の戦いも衆寡数せず全身創痍興光はもはやこれまでと、鎧甲を脱いでそばの松の枝に掛け大岩に上り悠然と腹かき切って果てた。
 これを見て盛光大いに喜び「これで高橋の所領一切が我がものとなった」と興光の首を持って犬伏山に出陣していた毛利の武将に得意満面で「お約束の興光の首を持参しました。この上はお約束の遺領&の誓約書を賜りますよう」と内心お賞もと期待していたが思いのほか「汝高橋本家相続人であり元就公の令兄夫人の令弟を謀殺するとは、武士にあるまじきこと。かかる犬武士は生かしてはおけぬ。直ちに誅せよ」と言って誅し首を斬られ後犬伏や摩に葬たと言う。
 現在も犬伏山の麓に盛光の墓と言われる墓医師が苔むして建っている。
 邑南町教育委員会

 史跡案内板にしては、震え上がるほど、かなりリアルな描写です。
 これを読んでキャンプ場に入る人たちの心境や如何に。

 それにしても、戦国武将というのは凄いですね。自分の死に様ですら、わざわざ高い場所で見せ物にしてしまうのですから。
「お前ら、俺の開腹をよーく見ておけ!」ということでしょう。
 それに毛利元就の謀略のコスいこと。中国地方の覇者とは言え、敵武将に対して所領安堵の約束を見せながら裏切らせ、最後は抹殺するという方法を度々取っています。
 同族の本城常光なども、そうですね。
 よくもまあ、これで配下の武将達の信頼を得られたものだと感心しますね、元就さん。

藤掛城
藤掛城遠景

 

 それはそうと、その高橋興光の墓が、藤掛城の麓に存在します。

高橋興光の墓
高橋興光の墓

 墓碑には、「藤掛城主 高橋大九郎興光之墓」とあります。

 この墓、すぐに見つけられる場所にありません。お休みのところ無理言って、地元の方に案内してもらいました。
「場所を教えろ!」という方は、どうぞメールにてお問い合わせください。

 切腹を見せ物にした割には、墓はかなりひっそりした場所にあります。
 元就も恐れた高橋家最後の当主らしくないといえば、らしくないです。
 興光の首は毛利方に行きましたから、この墓に眠るのは首無しの胴体だけ?

 何ともエグい話です。

 (2008年7月)

 

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