戦国の石見を探る……邑南町の城跡や史跡を紹介

島根県邑南町(旧 石見町、瑞穂町、羽須美村)の城跡や史跡・遺跡を紹介しています  

管理人の覚え書き

 ここでは、当サイト管理人の城跡訪問の余談や、覚え書きなどを記しています。

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◆亀井亜紀子氏当選の裏にある、津和野藩と邑南町の意外な関係

 忘れもしない、平成19年(2007年)の参議院選挙。
 この時、島根県選挙区では、自民党前職の景山俊太郎を、国民新党新人の亀井亜紀子が破って初当選。保守王国の島根で起きた全国レベルで注目の結果となりました。

 選挙速報で、亀井氏が当確を出した時、タイトルに「津和野藩の姫が初当選」とか何とか出てきました。そう、亀井久興、亀井亜紀子氏は、津和野藩主の家柄の出なのです。
 地元島根でも、亀井久興氏は「殿様」と呼ぶ人もいるほど。私の子どものころは、邑智郡は「桜内票」と言われて、亀井氏の票が入り込む余裕などありませんでしたが、あれから30年。選挙地図もがらりと変わりましたね。

 ところで、津和野藩亀井家と、邑南町(旧:石見町)は、かなり深い繋がりがあることをご存知でしょうか。

 平成19年の選挙中、中野に住む知人が景山票を集める活動をしていましたが、「日貫(ひぬい)は何を言ってもダメだ。あそこは亀井の殿様の家来だから」と言っていました。
 どういうことかというと、江戸時代、旧石見町内では日貫地区だけ津和野藩でした。残りの矢上、中野、井原、日和地区は浜田藩。ですので、日貫地区には「津和野街道」という山道さえ残っている程です。

 つまり、津和野藩の最東端が邑南町日貫地区だったということです。

 なんだよ〜江戸時代のことが、今現在の選挙の票を左右するのかよ……。
 それにしても、この邑南町まで津和野藩が延びているというのは、かなり地理的に不自然ではありませんか?

 その理由はよく分かっていません。『石見町誌』には、戦国期に津和野・吉見氏の勢力が日貫まで及んでいたからではないかとしています。

 ともあれ、津和野藩の初代・亀井茲矩(かめいこれのり)氏の時代に、津和野と日貫との深い因縁が築かれた話があります。

 亀井茲矩については、ここで説明するまでもなく、尼子氏の残党で織田信長、豊臣秀吉に仕えた戦国武将です。
 その亀井茲矩の没後、柳風和尚という僧侶が亀井茲矩の位牌を背負い、菩提を弔う為に旅をしていました。その和尚が日貫地区にあった玉光寺を気に入り、そこに位牌を安置したというのです。寛永3年(1626)のことだったと『石見町誌』にはあります。

 玉光寺は、その名前の通り日貫を納めた領家玉光が開基です。
 玉光寺の薬師如来は行基の作と言われ、玉光も朝夕拝んだといわれる仏像だとか。その玉光寺を柳風和尚が「宝光寺」と名前を改め、浄土宗智恩院派として今日に至っています。


宝光寺

 その亀井茲矩氏の位牌があるということで、津和野藩の尊崇も厚く、亀井家から寄進されたものも数多くあるそうです。

 つまり、邑南町日貫地区と津和野藩亀井家は切っても切り離せない関係なのです。

 ついでに、津和野藩日貫の話をいくつか紹介しましょう。

 津和野藩は楮(コウゾ)の栽培と製紙を奨励し、日貫はそれを年貢とした伝統があります。今でも日貫小学校の卒業証書は児童による手すきの和紙が使われています。

 津和野亀井家十一代茲監(これみ)の若殿出生後に乳が足りず、久佐組から適当な者を乳母として差し出すように触れがありました。特に日貫の庄屋山崎氏宛に、日貫村は手広なので乳持女は二三人ないことはないだろうし、日貫は人品もよく気質もいいので、なるべくは日貫から出してもらいたいと要請がありました。
 そこで山崎忠四郎は、日貫代古屋・松本求馬の妻くにを推薦。その推薦状によると、24歳だったくには、その年に女児を出産して子供は三人、みな丈夫な子で、くに自身も無病息災、母乳の出もよいとあります。

 また、嘉永七年(1854)には、津和野藩主が飼ってい丹頂鶴を日貫に預けて飼育しろとの命がありました。
 その後2年間大事に飼育し、つがいの鶴が死んだ後は、宝光寺で読経して埋葬したと藩に届けを出しています。

 さらに、幕末の長州征伐の際、浜田藩領内からは数多くの農民が兵隊としてかり出されました。矢上、中野、井原では、その兵役が嫌で一揆が勃発したぐらいです。しかも、何を隠そう矢上出身の私の先祖も浜田城にて戦ったという記録があります。
 ところが、中立を保った津和野藩の民は兵役を免れました。そのあたり、余計に日貫地区の人たちは恩義を感じたことかもしれません。
 
 さて平成19年に話を戻しますが、そんな日貫で景山側がどんな選挙活動をしようが、亀井票を崩すことはできそうもありません。

 でもまてよ、亀井茲矩の母は、多胡辰敬の娘ではなかった?
 多胡辰敬と言えば、出身は邑南町中野の余勢城だ。多胡辰敬の子孫である多胡家は津和野藩亀井家の家老として有名だ。

 つまり、邑南町(旧:石見町)の中野地区も、亀井氏の配下と言えなくもなさそうだ。

 そのことを知人に伝えると、「げげっ、まじかよ!」と驚いていましたが、そんな戦国時代のことを平成の時代の選挙に持ち出すなよ、と思ったものです。

 お願いですから、国政選挙に「血筋」を持ち出さないでくださいね。
 明治時代ならいざ知らず……と思った次第。

宝光寺
宝光寺本堂

宝光寺 本堂
宝光寺本堂内 仏壇右奥に亀井公の位牌があります。

亀井茲矩の位牌
亀井茲矩の位牌

(2007年)

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邑南町の城|中世・戦国の石見

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