戦国の石見を探る……邑南町の城跡や史跡を紹介

島根県邑南町(旧 石見町、瑞穂町、羽須美村)の城跡や史跡・遺跡を紹介しています  

邑南町の名所案内

 ここでは、島根県邑南町内にある歴史スポットや名所を紹介しています。

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◆郷土が生んだベストセラー作家・小笠原白也の「嫁ケ淵」

 意外に知られていないことですが、小説が映画化されたベストセラー作家が、かつて邑南町の地より出たことがあります。その名も、小笠原白也。

小笠原白也
小笠原白也氏

 小笠原白也は明治時代に活躍した小説家です。
 生まれは明治6年(1873)邑南町(旧瑞穂町)田所上の堂所谷にあった屋号・梅田屋です(今その家は残っていません)。 成人して上田所尋常小学校の代用教員などを勤めていましたが、正式な教員となる為に大阪へ出て、関西法律学校(今の関西大学)を卒業し、教職を得ました。
 大阪の此花区上福島北に住み、小学校教員をしつつ創作活動を始め、34歳頃に小説「嫁ケ淵」が大阪毎日新聞社主催の懸賞小説に見事一位を獲得し、新聞連載が始まりました。
 その名の通り、邑南町の名勝・断魚渓とその周辺地域をモデルとした小説です。
 明治40年に3ヶ月間連載され、その連載終了後、東京の梁江堂書店が単行本を出版、後編も合わせて8版まで出るというベストセラーとなります。
 明治末期の世相を舞台にした農村社会問題を問う小説として広く共感を得て演劇化され、全国各地で上演。明治43年には吉沢商店により映画化。昭和7年には新興キネマ制作で映画化されました。
 今に例えれば大ヒットどころではありません。

小説・嫁ケ淵
明治40年1月の連載紙面(復刻版より)

  この「嫁ケ淵」ヒットを機会に小笠原白也は教員をやめて大阪毎日新聞社に入社。校正課長などを務めて、定年退職後は顧問となり、また毎日新聞青年学校の校長として、若い新聞記者を育成しました。
 その中、時には故郷の田所に帰り、農村活性化の講演を行ったり、地元の文人との交流を深めました。

 太平洋戦争で大阪が空襲を受けると田所の堂所谷に戻り、昭和21年(1946)六月に74歳で亡くなりました。
 その死に際し、白也は所有していたすべての蔵書を土に埋めさせ「文塚」を築いたといわれますが、それはどこかは不明。

 白也の作品は他にも、帝国キネマにより映画化された「三人の母」や、「女教師」「見果てぬ夢」「妹」「此の一票」「南朝山河の秋」「いそがぬ旅」「ハンザケ村」など多数。
 代表作である「嫁ケ淵」は、昭和60年(1985)に田所公民館により復刻版千部が出版されました。
「ハンザケ村」など短編数本は邑智郡誌にも掲載されています。

 ただ、残念なことに白也原作の映画は現在、どこにも残っておらず、鑑賞することができません。

嫁ケ淵 復刻版
嫁ケ淵の復刻版
邑南町図書館にありますよ。

 さて、気になる「嫁ケ淵」の内容なのですが、復刻版を読もうとして、数ページで挫折しました。
 明治当時の文体・漢字は難しく、また時代背景や独特の単語など相当勉強してからでないと読めないでしょう。
 大筋を記しますと……

 正義感の強い主人公の矢上政八は小学校教員で妹の梨花と琴弾山のふもとの村で二人暮らしていた。
 大地主で代議士の井原猛夫は東京から子爵を招いたとき梨花にも接待させる。
 梨花は子を宿すはめになり、嫁ヶ淵へ身を投げようとするが寸前に助けられる。そして密かに京都で子爵の別邸に囲われ男児を産む。妹を立派な娘に育てようと心を尽くしてきた政八は落胆。教職を辞して京都へ出、裁判所で働き夜学で学ぶ 。
 村の指導者・定吉の妻は、井原の伏魔殿で梨花と同じ目にあい嫁ヶ淵へ身を投げる。
 定吉は小作人の暴動に加わり地主の井原を斬りつける。傷を負った井原は、敵ながらその人格や思想・正義感に一目置いていた矢上政八に財産を任す、と遺言状を残して息絶える。
 矢上は当初から思いを寄せていた井原の娘・弓子と結婚。小作人との土地問題を解決し、大邸宅の一部を病院に改造、講や相互扶助組織を復活させ、養蚕を薦め製糸工場を計画、耕地整理事業で小作人の働き口をつくるなど村のために意欲的に働く。(2012:山陰中央新報・続「人物しまね文学館」より)

嫁ケ淵
復刻版の第1ページ目

 なるほど、かなりえげつない内容を含みますね。
 現代でも「性接待」「枕営業」などが問題になることがありますが、今から百年以上も前の話となると、文化的に未発達の農村では余計に存在した出来事だったのかもしれません。
 これは映画化されると内容を少し変えているようで、映画紹介の文章によると……

 山から明けて山に暮れる山陰の連峰に包まれたる平和な一僻村がありました。兄を村の小学校の教員にもつお梨花は村一番の美人だった。やっと年頃になった許りの彼女に大きな望みがあった。一日たった二度しか通わない町へ通ずる軽便鉄道のマッチ箱の様な汽車を眺めては都会へ……の憧憬の念を抱いていました。
 村一番の大地主井原家の一人娘弓子は兼ねてからお梨花の兄政八を恋していました。己の利欲より他に何事も考え得ない井原は勿論娘の恋を許そう筈はなかった。
 ある日、前代議士春越恭三がこの村を訪ねると云う知らせに村民の有力者は一夜料亭に村会を開いた。井原の貪指は動いた。利権を漁る春越を利用せんとして種々計画をめぐらした。やがて村に到着した春越は美しいお梨花の姿を見逃さなかった。哀れなお梨花は呪われの一夜を恨みつつ彼の毒牙に陥った。
 そんな事があってから村にお梨花の噂が伝わり始めた。兄は妹を信じてお梨花を慰めた。何故かお梨花は泣き続けるのみであった。そして医師より妊娠と云われた時、お梨花は眩惑を感じた。広い世の中にたった二人の兄妹だ、あれ程可愛がってくれた兄にふしだらな身を語られなかった。
 やがて生まれ出る子供の事を考えて彼女は死を決した。嫁ヶ淵の濁水を求めて路を急いでいる時、村の警鐘は突如乱打された。旱天続きで凶作実らぬ田畑を抱えて村人は決起して暴戻なる地主井原に対して「嫁ケ淵の桶を決潰しろ!」「そして俺達の田畑に水を引き入れろっ!」と、怒号威声の中に矢上の姿が見いだされた。
 彼の努力によって漸く鎮められた時、お梨花の死が伝えられた。悪地主井原も今は矢上の努力、弓子の恋によって真人間に立ち帰る事が出来た。黎明の朝は訪れた。だが嫁ヶ淵の濁水のいつまでも黒く淀んでいた。(当時の映画広告より)

 うう、映画では梨花は死んじゃうのか……。
 この「嫁ケ淵」の舞台のモデルは当然ながら邑南町井原などにあったのですが、復刻版を読めば最初から「不可志、冠山、のぼってみたい、奥には八色の石がある」とあるように、モデルどころか完全に舞台は井原地区になっています。
 大地主の「井原」って、本当にいたのでしょうか……これもモデルがあったと言われます。当時の農村事情を考えると、このような話は、どこにでもあったのかもしれません。

 この小説・映画の全国的なヒットにより、当時断魚渓には観光客が絶えなかったと言われます。つまり現代で言う「聖地巡礼」です。

断魚渓の嫁ケ淵
断魚渓の嫁ケ淵方向

 もともと「嫁ケ淵」という名前は「嫁の飯銅(よめのはんどう)」と呼ばれていたそうです。飯銅とは、水をためておく大きなカメのこと。小説の題名に「嫁のはんどう」では変であるということで「嫁ケ淵」としたそうで、つまり「嫁ケ淵」という地名は白也が名付けたことになります。

  なお、白也の父親である小笠原語七郎は、明治6年に下田所尋常小学校を設立して教師となり、田所村村議会議員となり郷土発展に尽くした人です。
 現在の瑞穂道の駅隣には語七郎翁の記念碑が建てられています。

小笠原語七郎翁の碑
道の駅瑞穂の裏にある「小笠原語七郎翁」の記念碑

(撮影:2015年12月)

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邑南町の城|中世・戦国の石見

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