島根県邑南町の城跡

邑南町の変遷を航空写真・地図で見る

 ここでは、邑南町内やその周辺で廃村・廃集落となった地の変遷を、航空写真や地図で見てみるコーナーです。

◆邑南町(旧羽須美村)青石・引城集落

 旧羽須美村の青石、引城集落は、現在も住んでいる方がおられます。しかし、昭和40年代にこの集落を取材した方による手記がありますので紹介したいと思います。
 それにしても、現在でも青石へ通じる道は相当の急坂で、私は軽自動車でしたがキツくて止まりそうでした。こんなの雪が降ったら絶対に登れない……。


現在の青石(Googleマップ)

青石地図
昭和27年の青石・引城・後山集落周辺地図
(地理調査所発行1/50,000地形図「赤城」(昭和27.2))

 「引城」という地名は最近の国土地理院地図からは消えていますが、バス停「引城」は存在します。上の地図を見る限り、青石集落へは車で通うことはできず、おそらく荷車も無理だったでしょう。
 (以下、航空写真は国土地理院国土画像閲覧システムより引用)

青石(1948)
昭和23年(1948)の引城、青石集落

引城、青石(1976)
昭和51年(1976)の引城、青石集落

 ここで、昭和40年代に、この引城、青石を訪問した人による手記がありますので、許可を得まして以下に引用したいと思います。

 性能を誇る?私の軽四輪がロウでやっと登れるようなカーブと石ころの坂道を村の中心から約十キロ、登りつめたところで道はプッツリと途切れて、そこからはやわらかいジュータンでも敷き詰めたような雑草の細道がタコ足廃線のように八方へ走っていた。
 青石へ通じる村道であった。
 邑智郡羽須美村口羽山紫水明の中国太郎江川によりそうように走っている県道を下ると、そこには引城という小集落があるはずであった。
 しかし人家は一戸もなかった。いや正確に言うなら人の住んでいる人家は……。はるかに背丈を超す雑草の中に屋根のずり落ちた農家や牛小屋が、みにくいおのが姿を恥でもするかのように草の中にしずみこんでいきつつあった。
 ひとり道ばたで牛草を刈っていた七十歳ぐらいの老人は「ここが引城でさあ、もう一軒もないようになりました。水田が少ない、水の便も悪い、それにこの一帯はエット(沢山)のこと猿が出て作り物を荒らしましてなあ」
 町に出て商売をはじめた人、都会に出ている息子をたよって出ていった人、職業訓練をうけて県外に新天地を求めていった働き盛りの夫婦など、引城の人たちは一人の離村をきっかけに浮き足だつように部落をすてはじめた。

  江川をはさんで対岸は広島県作木村である。ここでは道路舗装がすすみ、住宅の改築が行なわれ、三江南線の鉄道工事がにぎやかに行なわれているというのに、住む人を失った家々はだまりこくって終焉の日をまっているようであった。
 幅二メートルあるなしの前述の急坂では、たった一人郵便局の集配人と出会っただけである。車とでも出会ったものなら交差に冷や汗をかかねばなるまい。
 そんな別世界に「青石」があった。人の気配はなく、虫の声だけがむやみに大きく雑木林に吸い込まれていく。ただ私たちの目に異様に飛び込んで来たのはかっての住人の表札をかかげた無惨な廃家が墓地で死を待つ巨象のようにひっそりとたたずんでいる鬼気せまる姿が点々と写し出されたことである。
 すでにくちはてて倒壊した屋敷あとには、かって赤々と火をたたえたこともあったのであろう「イロリ」だけがおき忘れられたように残っていた。かって多くの人々をはぐくんだこの大地は、いま生きることにつかれ果てたように荒廃へのあゆみを急いでいる。

 こんにちの保守政権が財界とむすんで作り出した政治公害「過疎」がここでも必死になって訴えているように思えて、私たちは顔をみあわせて言葉もなかった。
 電燈線が引かれていることで人家のあることを確認しながら荷車すらかよわない小道をたどっていくと、井上さん夫婦がサツマイモの苗植えをやっていた。この谷は井上さん一家だけで、あとの三戸はすべて廃家となり、まわりの水田は背丈ほどもあるカヤの原となり、雑草がわが世の春を謳歌していた。
 昭和三十年ごろまで十五戸もあったこの集落は、いま七戸がひっそりと暮らしている。あの、目がまわるような急坂の道路もようやく開通したばかりで、路面は未完成。それまでは江川沿いの県道から約五キロ、肥料や農薬、生活用品をすべて肩にかけて背負い、こんどは生産した米や木炭を一俵一俵汗にまみれて背負っておろすのであった。
 土地の人は「登りなどは荷物をしばった縄が肩にくいこむし、心臓を荒ら砂でなでるほど苦しかったものだが、それが当たり前と思っていた」と苦労を語るが過疎調査にきた学生たちはこのようすをみて唖然として、たずねる言葉もなかったという。

 サルが人に追われて過疎になる……などというバカなことをいったら笑われるかも知れないが、ここでは一番深刻なことだった。
 かって新聞やテレビが騒いだ、あの口羽名物「野猿の大群」である。ザアーッ!という豪雨のような音とともに数百匹のサルが谷あいをひとなめすると、もうその秋の収穫は終わりであった。
 すぐそばの後山に住む大歳さんは「この辺の者はサルに追われて逃げたようなもんです」と自嘲するように笑う。江川の水と山を中心にした景観美とニッポンザル……たしかに一時期、このサルを手なづけて「第二の高崎山」をねらう人間のサル知恵がめぐらされた。しかしその間に猿どもは増長していった。
 天気がよいのに、大雨のようにザアーッという音が山から次第に大きくなってくる。筆者も一度、道路を横切るサルの大群の中に車をとめさせられたことがある。一匹なら可愛いサルも、数百匹となると恐怖の集団となる。ボンネットの上を次々ととびこえていく大群にかこまれながら、車中でじっとみつめていたことを思い出す。
「猿が来たぜエーッ!」
 となり主人がさけんだのと同時、小岩を無数に転がすように山を下って来た。雨戸をたててすき間から見ていると、いっせいにエモノへむかって突撃していく。
 稲の実をたべる、畑ではマメやイモを遠慮会釈もあらばこそ、かたっぱしから引っこ抜いて、かじっては捨て、かじっては捨て……。ハクサイやダイコンまでが犠牲者にされる。もちろん、カキやクリの実が人サマの口へはいるように残されようはずがない。たった一、二度の襲来で、部落は秋のおわりを思わせるようになるのであった。
「人間はサルのおこぼれで生活しとるわけにもいきませんけえ、どうしても出稼ぎするか、村をすてるよりほかにありません」

「野猿捕獲組合」……ひらたくいえば「サル退治組合」ができて、餌付けによる方法で相当数が生け捕りにされ、モンキーセンター送りとなり、一応は平静をとりもどした。しかし、この数年の間に生活基盤はメチャメチャにされてしまった。
 中卒や高卒の跡取りが部落に残ることはなかったし、四十代、五十代の男という男は、出稼ぎしなくてはとても生活をささえられなくなってしまう。四十代の「青年層」が出稼ぎもしないでいると「あいつは病気か、それとも横着者か?」と疑われる始末。
 残された老人と女子どもの仕事といえば、一メートルをこえる大雪から家を守り、道路を確保することであった。
 井上さんはいう、「まだまだ減りましょう。七戸が四戸になる日は遠くない。若い者に帰ってこいというのも残酷ですけえ、どうしても年をとって仕事ができんようになれば、息子のところへいくしかない。まあ養老院もあることだし……」と。
 さみしい話であった。一生涯体をせめて働いて、その代償として夢みることのできる老後が養老院行きとは。
 たしかに残っている七戸の構成をみても、世帯主が六十代、七十代が多く、あと五年もしたら、この集落は人影を大地に映すこともなくなるのではないか。
 先の村長選挙で革新系の人が立ったため、おちおちしておれなくなった保守の現職村長は、部落はじまって以来はじめてあいさつにやってきた。その村長すら「どうにもならんのう」と呆然として帰っていったという。
「どうにもなりゃあせん。法律(過疎法)をつくってもらってみたところで、わしらのところには無縁。まあこがあな所に生まれて来たのが身のインガでして……」

「邑智のチベット」といってもいい青石に住むことを拒否して新天地を求める意欲をもった人、なんとかして米プラス蔬菜や和牛で生き抜こうとする人、なす業もなくただ自然消滅をまっている人、いろいろな人々にいかに生きる勇気と希望を与えるかが政治ではないのか。
 山にへばりつくような畑で仕事をしていた婦人は「こんなところで国会の先生とひと月いっしょに暮らしてもらったら、どんなものかようわかるでしょうが」と笑いながら、お役人が頭の中でこね上げてつくった法律では、ここまで光がとどかないとなげく。
 年寄りのこと、婦人のこと、子どもたちのこと、いつの時代も弱い立場にいる人々にはつめたいのが保守政治の常とみうけた。
「急激な人口減少を結果する環境条件の中で、農山村でくらす住民の意識が消沈衰退」(島根大学内藤正中著から)したありさまは「心の中にまで過疎が巣食っている」ことを思わせる。私たちは、残った七戸ががっちり手を組み、これからの道をさぐり合いながら村と根気よく話しあうことをすすめ、われわれもぜひそのときは参加させてほしい、とあてにならない約束をして「ともかく元気で」となぐさめて下山するよりほかにない無力さに腹が立った。
 この引城、青石、後山一帯は「サル」という過疎促進の材料があったにせよ、車もあがらない、医者もきてくれない、まして行商の人もはいらない、冬には大雪ですっぽりとつつまれてしまう中国山地のきびしい生活条件の中で「人なみの生活」とはいったいなんなのかを改めて問いかけられる気がした。
(日高勝明・浜崎忠晃著『過疎の原点から 消えゆく集落』昭和47年初版:発行 日本社会党邑智総支部 より引用)

 ……現在、過疎というものは集落単位ではなく市町村単位で進んでいるような気がしますが、この地に暮らした人々の苦難の息づかいが伝わってくるレポートです。

引城
引城の農地跡

引城の廃屋
引城の廃家

棚田の跡
かつての棚田と思われる石垣が残っています。

引城の棚田?
狭い土地を使うための苦労の跡です。

引城の農地跡
引城の農地跡。
おそらく奥の墓場は家屋があった場所でしょう。

青石の農地跡
青石の農地跡

青石
青石の農地跡

青石
頑張って暮らしておられる方があります。
猿害は大丈夫なのかな……。

青石の家屋
Googleストリートビュー撮影の車でさえ入らなかった場所で、
まだまだ生活は続いているのです。
(写真は2015年9月撮影)
  

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「邑にゃん」とは邑南町の歴史を勝手につぶやく謎のネコである。邑南町公式マスコットとは何ら関係がない。