島根県邑南町(旧:石見町)の城 |
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このページでは、日貫・日和地区の城跡について紹介しています。 東屋城(邑南町日貫 町中央)
さて、ここからは地元の方に聞いた伝承です。 |
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丸山城(邑南町日貫 鉄穴原)
この城に関して、一つの説話が残っています。『石見町誌』には「丸屋城の話」という題名で記載されていますが、そのまま引用してみますと、「城主が東の都のことが恋しくなって、玉の簾を巻き上げてみると、西も東も大山ばかりであったという。吉原すだれの地名の起こりであると伝えられている。田屋の祖先の人がこの山を開墾した時、朱甕(かめ)が出てきたが、あやまって壊してしまった。その中の朱がみな流れ出てしまったが、七日間も下流の川の水は朱で赤く染まったということである。(石見町誌下巻)」とあります。 |
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日和城(邑南町日和 大釜谷)
応永21年(1414)に土屋氏の内紛が起こり、山名氏明が幕府の命を受けて土屋氏討伐を行いました。その時から日和は小笠原氏の勢力範囲となり、小笠原氏家老の寺本氏が、八色石の銭宝城より日和城に入りました。
しかし、永禄元年(1558)2月、再び吉川軍の杉原盛重により攻撃を受け、寺本伊賀守は降伏し、日和城は吉川軍支配下となりました。これより前に吉川軍は、小笠原氏の本拠地・川本温湯城を攻めようとしましたが、毛利元就より「日和の寺本はすぐれた戦闘力を持っており、これを川本より先に叩いておかなければ、出羽(旧:瑞穂町)からの補給路が絶たれる恐れがある」旨、助言があったと言われます。 日和城は標高496メートルの山頂にあり、現在、南北に40メートル、東西に10メートルの広さがある本丸跡に社が建っています。 この日和城主小笠原家臣等の菩提寺が長円寺です。現在、中野にある浄土真宗の寺ですが、もともと日和にあった禅宗の寺だったそうです。寺本玄蕃亮源国長次男伊豆守氏長がこの寺に入って僧となり、円流と号しました。今でも長円寺の住職は「寺本」の姓を持ちます。 上の遠景写真は、上郷より見た日和城(中央の山の左山頂)。手前は如伝寺です。如伝寺も日和城と縁があり、寛文5年(1665)3月15日、寺本伊賀守の子孫・寺本伝蔵の妻シゲの建立によるものと伝えられます。最初は女伝寺と言っていましたが、後に如伝寺と改称されました。 日和城本丸までは、軽自動車が通れるほどの登山道が通じています。(登山道入口はここ)毎年7月には金比羅の祭りがあり、それに合わせて草刈りがなされるので、それ以降が登山には適しています。ただ、水害で山頂付近の道路が崩れたままになっているので、車では途中までしか登れません。それとクマに注意でしょうか? なお、日和城の南東の山に、吉川軍陣所跡(地図)があり、別名「大谷山城」と言われ『石見の城館跡』で城郭図が紹介されています。言い伝えでは、毛利軍の兵士一人につき3本の旗を持たせて振らせたそうで、日和城に対して大軍であることをアピールしたのでしょう。 |
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杭ヶ打城(邑南町日貫 川下)
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土居城(邑南町日貫 福原)
さて、この土居城について、一つの民話が残されています。福原のずっと上の山の中に、「なかごおろ」という字がある。そこに森田対馬守が軍資金を埋めたらしい。それがどこか分かりませんが、白い椿の花が咲く場所にあるということだそうです。しかし、大水で流されたそうで、現在それがどこかはハッキリしません。 同じ話が雲井城にもあって、金の埋めたところに白椿が咲くそうです。しかしそれを見たものはいない。また、矢上の千両が滝というところにも、千両埋めたところに椿の木を植えたという話も有るそうですが、これは草刈でかってしまった、とあります。どれもアテにならない軍資金話でありました。 |
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大の田城(邑南町日貫 青笹)
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土床城(邑南町日貫 有安) 日貫有安地区にある山城。詳細は不明ですが、伝承では毛利に仕えた渡辺氏の居城だそうで、家紋も毛利と同じ「一文字に三つ星」だったと言われます。 |
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