このページでは、邑南町井原地区の城跡について紹介しています。
雲井城(邑南町井原 天蔵寺原)
井原は平安時代から「久永の庄」の範囲内にあったと言われ、交通の要所として栄えた場所です。
鎌倉時代、その井原を統治した井原氏の居城が、雲井城(地図)です。
田所の「二ツ山城」の出羽氏の勢力が及び井原氏に守らせていましたが、康安元年(1361)に二ツ山城が落城した後の井原は小笠原氏の治めるところとなり、井原氏もそれに属しました。ところが、しばらくして井原氏は守護代の大内氏により地頭職を外されたようです。
中野・矢上は福屋氏の勢力でしたので、尼子側の小笠原氏と抗争するようになると、平城ー稲光城の防衛ラインを築いて福屋の攻撃を防ぎました。
弘治三年(1557)4月、雲井城は毛利元就の子・吉川元春率いる石見制圧部隊により攻撃され、5月上旬に落城しました。この時の城主が小笠原長雄の次男・長秀で、落城と共に川本へ敗走しています。
その後、吉川軍は小笠原勢力下にある日和の侵攻を中野より試みましたがうまくいかず、5月中旬には、雲井城に守備隊を残して安芸新庄に帰ったといいますので、城の機能はそのまま残っていたようです。
吉川軍は、雲井城に対抗する為、東明寺山に城を構えたと伝えられます。敵が攻めようとすると雲が出て、城を守ったという伝説(下の民話参照)があるほどで、それほど雲井城は難攻の城でした。
この雲井城に、井原南自治会館の裏側から登ったことがあります。
斜面は極めて急。そもそも城の南側は井原川が流れ平坦な地がありませんから、こちらから攻めることは容易なことではなかったでしょう。
山頂には広い削平地が三つあり、本丸、二の丸、三の丸と推定されます。本丸は直径約30メートルの円形。三の丸の下には、空堀の跡があります。また、南西側の尾根沿いにも広い削平地や空彫も認められます。
草木で荒れ果てておりますが、石見町内では熊ヶ峠城に継ぐ大城で、その面影は現在も残っております。
実際には天蔵寺近くから雲井山の登山道があるようですが、おそらく城跡までは行かない道だとは思います。猿対策の為に夏には草刈りされるそうです。是非山道など整備して、訪問しやすいようにして欲しいところですね。
写真は、井原の町から見た雲井山です。左側の高い部分が本丸、二の丸、三の丸がある部分。右側に延びる標高差の無い尾根にも郭が存在します。

(『石見の城館跡』より引用)
雲井城の蜘蛛
井原地区に残る民話に「雲井城の蜘蛛」という話があります。『石見町の民話集』によると、雲井城を敵が攻めようとすると、濃い霧や雲に包まれて攻撃ができず、おかげで難攻不落の城であった。その雲井山のふもとを流れる谷川に、天蔵滝という水汲み場があった。しかしそこでは、毎年女が一人、大きな蜘蛛にさらわれており、民はいつも不安でおびえていた。
そこで雲井城の侍が蜘蛛を退治したのだが、それ以来、戦の時に城を包んだ霧が出てこなくなり、あわれ雲井城は落城してしまった、という話です。
つまり「雲」と「蜘蛛」をかけたダジャレの民話でありました。 |