島根県邑南町(旧:石見町)の城

 このページでは、邑南町中野地区の城跡について紹介しています。

余勢城(邑南町中野 河原城)

余勢城(邑南町中野) 応仁2年、多胡越前守俊英は応仁の乱の戦功により中野の地を与えられ余勢城(地図)を築きました。
 余勢城は南東方面は現在田んぼですが、築城当時は沼地であったようです。また、現在でも「堀」という名を持つ田があるそうで、空堀跡と見られます。毛利家の書状には「中の村要害」と記されるほど、非常に攻めにくい城であったようです。
 さて俊英の孫にあたるのが、尼子氏に仕えた有名な武将・多胡辰敬ですが、天文12年(1543)、辰敬は弟の正国に余勢城を任せて、自分は岩山城(大田市)に移りました。
 弘治3年、多胡辰敬・正国兄弟らは小笠原氏の守る井原雲井城を攻略。続けて川本温湯城を攻めて小笠原長雄を降伏させているとの文献もありますが、定かではありません。

 その後、福屋氏が毛利に反したことから、永禄2年(1559)吉川元春らの毛利勢により余勢城は攻撃を受けます。しかし、正国やその軍師・沖弾正がこれをよく防ぎます。特に永禄4年8月の戦いでは、多胡勢が敵陣に夜討ちをかけ、吉川側は児玉興三郎をはじめ500人の討死を出したと城跡にある石碑には記されています。当時の戦闘で討死は数名から十数名程度が普通で、さすがに500人は大げさな気がしますが、それほど毛利側は苦戦したようです。こうなると、謀略を使うのが毛利の常套手段です。吉川軍は多胡正国の家臣・別所小三郎宗晴をひそかに味方につけ、宗晴は正国の子・秀光を殺害して城門を開き吉川軍を城内に入れた為、防戦かなわず永禄5年(1562)1月、余勢城は落城しました。
  城兵500騎はほとんどが討死し、残った正国ら7騎は郡山城に逃れ、沖弾正は余勢城に火を放って自殺。郡山城でも吉川軍を防げず、正国は兄のいる岩山城に落ち延びたと言われます。
 余勢城の戦いを記したものはいくつかあるようで、その日付も内容も差があり、不明な点も多いです。石見町誌では、そのあたりを「諸書、混乱がある」としていますが、激戦があったことには違いありません。上記の戦史の年代は石見町誌と異なりますが、一応城跡石碑などに合わせてありますので、ご了解下さい。

余勢城跡 石碑 ちなみに、多胡を裏切った別所宗晴は、主君を裏切ったことから元就の信頼を得られず、その後殺されたという話が残っています。

 この余勢城戦に際し、毛利元就が中野・賀茂神社に鳥居を寄進し、戦勝を祈願したと伝えられています。

 さて、現在の余勢城跡地ですが、整備されて公園となっていますので、非常に訪問しやすいです。入口には石碑が立っており、農道から城跡へ車が入れる道があります。
 郭は、本丸、二の丸、三の丸が確認でき、かなり広い敷地を持つ城であったことが分かります。
 城の歴史について記された石碑がいくつか建っています。沖弾正の石碑もありますね。それにしても、それ以外の関係ない石碑が山のように建てられていて、理解不能です。よほど物好きな方が投資されたのでしょうが、かなり風変わりな城跡公園となっています。

 (おまけ)→余勢城 写真集

多胡氏と多胡辰敬

 多胡氏は一説によるとバクチ打ちの名人の家系で、足利義満に仕えていた多胡小次郎重俊は「多胡バクチ」と言われるほどバクチ名人でありました。

余勢城本丸
余勢城本丸跡

 その後、重行、高重と続きますが、辰敬の祖父にあたる俊英はバクチをやめ、京極氏に仕えて応仁の乱で活躍しました。その手柄で、応仁2年、邑智郡中野四千貫の領地を与えられ、余勢城を築きました。
 俊英の子は忠重。出家して入道慷休と名乗り、武芸の達人であったと言われます。
 さて、忠重の子・辰敬は幼くして将棋に堪能で、6歳の時に京極政経に将棋の才能を褒められ、その評判で12歳の時に京都へ出向きます。
 しかし、そんな自分の人生に悩んだのか、石見に戻って25歳ごろから10数年ほど放浪の旅に出ます。その旅で何か哲学を得たようで、38歳ごろから尼子氏の家臣として活躍するようになります。
 天文12年(1543)59歳の時に、尼子晴久の命により刺鹿岩山城主となります。中野余勢城は弟の正国にまかせました。「命は軽く名は重い」で有名な「多胡家家訓」は、それから書かれたものと思われます。
 余勢城落城により正国は岩山城に逃れますが、そこも吉川元春軍に包囲され、多胡辰敬、正国ともども討死しました。
 津和野初代藩主の亀井政矩の父亀井茲矩の母は、多胡辰敬の娘であり、津和野藩の家老・多胡家も多胡辰敬の子孫と言われています。

 以上、余勢城については『石見の戦国武将 多胡辰敬』という本があるので参考にしました。矢上公民館にありますので借りて見ることができます。

源太ヶ城(邑南町中野 町)

源太ヶ城(邑南町中野)" 築城時期など明確な文献は残っていませんが、平城ー稲積城の井原防衛ラインの目と鼻の先にあり、つまり福屋氏の最前線に位置する砦なので、重要な意味を持ったと思われます。
 ある資料では、城主が中村康之とありますが、永禄4年、吉川元春による福屋氏攻撃の戦いで落城したものとみられています。(地図)。
 現在の城跡は、一部土地改良によって畑になっていますが、主郭や西1郭など主要な部分は明確に残されています。左の写真は、城を北側から見たもので、左側の高い部分が主郭、右側の高い部分が西1郭となり、手前の桑畑が城北側の郭群となります。
 地元の人に聞いたところ、昔、北側の郭跡に家を建てようとしたところ「ここは城跡だからだめだ」と止めて山を拝んだ人があったそうで、今でもここに家は建てられないそうです。ですが、墓地となっている部分はあります。

 (おまけ)→源太ヶ城 写真集

 以下に掲載した 「石見町の遺跡」の城郭図は、かなり詳細に測量されています。城跡そのものは小さなものですが、その郭の数は、町内の他の城跡にはあまり見られない特徴で興味深いものがあります。

源太ヶ城要図
※「石見町の遺跡」より引用


東明寺城(邑南町中野 片田)

東明寺山(邑南町中野) 吉川元春による雲井城攻めの際、築かれたのがこの東明寺城(地図)です。雲井城は戦いが始まって一ヶ月ほどで落城していますから、その間、毛利方の陣所になった簡易的な城とみていいでしょう。
  伝承では、築城は中野・余勢城の多胡辰敬ともあるようです。また、実際に本陣は山の麓の「東明寺跡」にあったのではないか、という考えもあります。

 東明寺山は、海抜496メートルの山で、雲井山は431メートルですから、若干見下ろす形になります。雲井城を守る小笠原方によほど威圧を与えたことでしょう。
 東明寺山には登ったことがありませんが、農道から登山道があるそうで、山頂からパラグライダーをする人もいるそうです。山頂には削平地があり、城を構えた跡は確認できるようです。

 写真は、中野茅場方面から見た東明寺山です。

別所城(邑南町中野 上別所)

別所城『石見町誌』にも、『日本城郭大系』にも『島根県遺跡データーベース』にも掲載されていない、謎の城です。ただし、『石見の城館跡』には追記で掲載されています。また、昭文社の道路マップにも、なぜか「別所城跡」と掲載されています。理由がよく分かりませんが。
 ともあれ、名勝・鬼の木戸の西側に位置する小高い山の上に存在します(地図)。地元の人の話によると、山頂が平坦になっていて、確かに城があったと言い伝えられているそうです。
 一説によると、余勢城の水源である鬼の木戸を守る為に築かれた砦跡のようです。余勢城の戦いで主君を裏切った別所宗晴と関係しているかもしれません。

 で、この城に実際登った人がいます。レポートによると、登るのは容易ではないようで、城の様子については「南北に細長く、東西約8m南北約28mに削平されていた。南北両側に腰曲輪があるだけだった。」とあります。お疲れ様でした。

牛之市城(邑南町中野 牛ノ市)

 牛ノ市城(地図)は、慶長2年(1597年)の豊臣秀吉による朝鮮出兵の戦いに功績があって牛ノ市の地を賜った小林房辰により築かれた城です。戦国末期の、こういったパターンで設けられた城は、この地域では極めて珍しいのではないかと思います。
 今の牛ノ市は、とんでもなく山の中で、住んでいる人がいない地区ですが、実は断魚溪を抜ける道ができる近年までは中野から川越などの江川方面へ抜ける交通の要所でした。なんでもここで宿泊する人も多くあったようで、かつてはにぎわいを見せた場所なのでしょう。

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