島根県邑南町(旧:石見町)の城 |
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このページでは、邑南町中野地区の城跡について紹介しています。 余勢城(邑南町中野 河原城)
その後、福屋氏が毛利に反したことから、永禄2年(1559)吉川元春らの毛利勢により余勢城は攻撃を受けます。しかし、正国やその軍師・沖弾正がこれをよく防ぎます。特に永禄4年8月の戦いでは、多胡勢が敵陣に夜討ちをかけ、吉川側は児玉興三郎をはじめ500人の討死を出したと城跡にある石碑には記されています。当時の戦闘で討死は数名から十数名程度が普通で、さすがに500人は大げさな気がしますが、それほど毛利側は苦戦したようです。こうなると、謀略を使うのが毛利の常套手段です。吉川軍は多胡正国の家臣・別所小三郎宗晴をひそかに味方につけ、宗晴は正国の子・秀光を殺害して城門を開き吉川軍を城内に入れた為、防戦かなわず永禄5年(1562)1月、余勢城は落城しました。
この余勢城戦に際し、毛利元就が中野・賀茂神社に鳥居を寄進し、戦勝を祈願したと伝えられています。 さて、現在の余勢城跡地ですが、整備されて公園となっていますので、非常に訪問しやすいです。入口には石碑が立っており、農道から城跡へ車が入れる道があります。 (おまけ)→余勢城 写真集 多胡氏と多胡辰敬 多胡氏は一説によるとバクチ打ちの名人の家系で、足利義満に仕えていた多胡小次郎重俊は「多胡バクチ」と言われるほどバクチ名人でありました。
その後、重行、高重と続きますが、辰敬の祖父にあたる俊英はバクチをやめ、京極氏に仕えて応仁の乱で活躍しました。その手柄で、応仁2年、邑智郡中野四千貫の領地を与えられ、余勢城を築きました。 以上、余勢城については『石見の戦国武将 多胡辰敬』という本があるので参考にしました。矢上公民館にありますので借りて見ることができます。 |
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源太ヶ城(邑南町中野 町)
(おまけ)→源太ヶ城 写真集 以下に掲載した 「石見町の遺跡」の城郭図は、かなり詳細に測量されています。城跡そのものは小さなものですが、その郭の数は、町内の他の城跡にはあまり見られない特徴で興味深いものがあります。 |
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東明寺城(邑南町中野 片田)
東明寺山は、海抜496メートルの山で、雲井山は431メートルですから、若干見下ろす形になります。雲井城を守る小笠原方によほど威圧を与えたことでしょう。 写真は、中野茅場方面から見た東明寺山です。 |
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別所城(邑南町中野 上別所)
で、この城に実際登った人がいます。レポートによると、登るのは容易ではないようで、城の様子については「南北に細長く、東西約8m南北約28mに削平されていた。南北両側に腰曲輪があるだけだった。」とあります。お疲れ様でした。 |
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牛之市城(邑南町中野 牛ノ市) 牛ノ市城(地図)は、慶長2年(1597年)の豊臣秀吉による朝鮮出兵の戦いに功績があって牛ノ市の地を賜った小林房辰により築かれた城です。戦国末期の、こういったパターンで設けられた城は、この地域では極めて珍しいのではないかと思います。 |
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